第50回樹望塾 1999.8.3
菱垣廻船浪華丸
気仙・白山・浪華丸は姉妹船
平山憲治
平成四年、本格的な和船の建造を目指して造られた 気仙丸(三百五十石)は、釜石の海洋博でエキスポ大賞
通産大臣賞)を受賞した。新沼留之進と一言う優れた棟梁研鑽によって一長い間に忘去られていた「日本形船」
が復元されたのである。その腕を買われて気仙船匠会7名が平成九年、佐渡国小木町に招かれて七百五十石の
「白山丸」を建造した、「宿根木、千石船の里」という小さな集落で、日本一の「北前船」が誕生した実に、
町民一体となっての成果である。だが、記録は常に破られる。平成十年四月から大阪市が千石積み「菱垣廻船」
の復元に着手した、ここにも十一ケ月間出張し、日立造船堺工場で、船の権威者先生方の入念な研究の成果を
もとに完成させた。「浪華丸」と名付けられたこの千石船は、名実ともに日本一である 奇しくも、この
三杯の新造に係わりを得た幸運は、我々の生涯の華としてばかりではなく、日本の技術史の一コマとして記録
に留めておかねばなるまい。建造に当っては、所々の難点に遭遇した。実物の「べざい形船」は一隻も残っていな
いのである、棋型と絵馬、船図だけが頼りであるが、これは省略されていたり、詳細図などありようはずもない。
明治二十年代より、日本型船は逐次西洋型に変えられるようになる。古来から「船は接ぐ」と言って巾の広い
板を縫い釘で張りあわせる「棚板工法」であったものが、スパント(肋骨)に外板、内張りを打ち付け、
甲板のある構造になる。和船の工法は顧みられなくなっていた。帷一の例外がある。大阪市史五巻に
「菱垣廻船歓晃丸図解略説」があった。和船には五百に及ぶ名称がある。新沼棟梁は模型を作りながら研究
していたが、船人工たちにとっては、見るも聞くも初めての用語ぱかり。更に、日頃見慣れる漢字に
閉口した。毎晩奥さんに読んでもらい覚えた人もあった。作業に当たって一番心配されたのは、四寸
(12センチ)から六寸もの厚板をどのように曲げて張り付けるかにかかっていた。昔は 板に火を焚い
たりお湯をかけたりした。いまではボイラーで蒸して曲げる。木は伸びて曲がるのではなく内側が縮んで
曲がるのである。それらの木の習性を知り尽くしていないと、とんだことなる。職人には常識であっても、
長いこと木造船に接する機会を奪われていた設計、監督者にも大変な苦労のあとが伺われた。渡された
仕様書にことごとに食い運いの部分かある。これらの誤謬を認めたのでは、生産意欲に阻害を来すばかり
でなく、船の安全性にまで影響する。暑さと、工法に関する諭争「大阪夏の陣」が展開されたのだった。
「浪華丸」建造の公的資料には、「気仙船匠会」七人の侍は名を留めないが、その主力として働いた
姉妹船であることだけは認知しておきたい。
(文化財愛護協会会員・大船渡市)