2002全豪選手権参加者手記
中來田 愛
『アクセスディンギー全豪選手権ツアーに参加して』
中来田 愛
1、
何に対しても積極的になった。
2、
ヨットが好きになった。
これが、オーストラリアに行った後の私の変化でした。
何事に対しても「別に・・・」や「何でも・・・」の一言で
片付けていたけれど、
自分の考えがしっかりと持てるようになりました。
ヨットの世界に、家族を、特に娘を引きずりこもうと
頑張っている人は、
オーストラリアに行かせるのがベストでしょう。
オーストラリアでは本当に楽しい毎日でした。一日一日が
いつも違う日で、
退屈と感じた時間はなかった気がします。
のんびりとした風が吹いて、
それに伴ってゆっくりとした時間が流れて、
湖の上をディンギーが走る風景。
あいさつをすると、全く知らない人が笑顔で話しかけてくれるうれしさ。
会場で出会った人たち。すべてが思いでとなり、
日本に持ち帰れた
最高のお土産だと思います。
日本では何かと「障害者」と「健常者」という風に
区別したがりますが、
オーストラリアでは「みんな一緒にヨットで遊び楽しみましょう」
という雰囲気でした。自分でディンギーに乗り込めない人は
リフトを使って
乗せました。でも、介助はここまで、後は健常者に
優る上手さで
湖の上を走っていました。重度の障害者の人たちが乗れるように
工夫をしたディンギーもありました。すごくかわいらしいデザインで、
何も特別だからといって重々しい感じの物ではありませんでした。
レース後はパーティーをし、いつの間にか私もダンスの輪の中に入って
踊っていました。ダンスといってもみんなで手をつないで音にあわせて
体を動かすだけのものですが、すごく楽しくて、誰かれかまわず手を
取り合い笑顔で踊りました。
私はこの一週間の間にたくさんの人と話しました。たくさんたくさん
話をしたけれど、みんなみんな笑顔にあふれているイメージが強く
残っています。オーストラリアでお世話になった人たち、
ありがとうございました。お父さんとお母さんも学校を休むことを
認め参加させてくれました。ありがとうございます。
大上直美
今回、初めてオーストラリアインターナショナルレガッタに母と共に
参加させて頂き様々な経験をする事が出来、数多くの事を学び得ることが
できましたがある意味日本とのギャップに戸惑いと驚きで、
母娘カルチャーショックを受けましたが…
先発組だったので、後半組の到着まで色々な行事がありまして、
天候不良で練習が出来なくて残念でしたが、ポートスティーブンの
市長とのパーティー、地元ロータリークラブのパーティー、牧場見学。
オーストラリアの広大な大自然の中で
人の暖かさにも触れ、本当に歓迎して頂きました。
三日目レース会場のキャンベラへ移動船の調整&他のチームとの練習、
そして私の気分はどんどん沈んでいきました。
「レースに出たいなんて言わなきゃよかった…」と
私なんかより随分重い障害の人が多く居てましたが、
みんなとにかく早いんです。
普段から手軽に楽しんで乗っているようで子供達は、
「water battle」なんて言って
水鉄砲で遊びながらアクセスをなんなく走らせてるのには、驚きました。
ルールもろくに理解しないままレーススタート、最後の最後まで
サポートして頂きました。風がほとんどない状態でだんご状態でのレース、
なかなか進まないままなんとか無事完走できやれやれでした、
もう一日だけで十分満足で、もういいですって思いました。
夜はスポーツクラブでのパーティーに浴衣姿で参加、皆につられて
浴衣で踊り回ってしまい、はしたない大和撫子でした。
電動車椅子で踊り、トランペットを演奏するアミーの姿に感動し、
踊らずにはいれませんでした。とても日本では、経験できません
一応次の日もレースなので早めにホテルに戻り休息し
レース二日目少しは雰囲気にも慣れ
開き直りもあり、完走できればいいやと思いつつ相変わらず
強力なサポートの方々の
おかげで完走できやれやれでした感謝いたします。
様々な障害を持った人達が一気に集まり対応が大変な気がしましたが、
なんの戸惑いもなくなーんの壁もなくなんなく受け入れてしまう人々、
自分が障害者だということを忘れさせてくれる人達に感動しました。
いつも、自分は普通の人とは違うんだということを思い知らされる事が
多いのが現実なのに
今年10月に北港にて同大会を開催するべく今回オーストラリアで
サポートしてくださった方々が努力して下さってます。
素晴らしいサポートがあったから選手にとっていいレースになりました。
その方々の気持ちが他の少しでも多くの人達に伝わる事を私は、
障害を持つ者として願います。そして私もサポートする側として
頑張りたいと思います。
岡 道信
また、オーストラリアの季節がやってきた。
2月26日9人の先発隊が、関空に集まった。
今回は、3班に分かれてレースに参加する。
26日、28日出発組みと現地27日合流組の3班だ。
私は、26日出発組みだった。
午後2時渡辺さんに家まで迎えに来てもらう。
今年は、病気療養のため不参加。私を、送ってくれるために、
わざわざ来てくださった。ありがたい。
去年、彼が、パーティーで、片足で、杖をかざし、踊りまくって、
ローハイドーを歌ったのを思い出す。
今年は、どんなエピソードが、待っているのか?
3時関空到着。
ゴーちゃん、と西井さんが、すでに到着していた。
午後4時30分中田さん以外のすべての参加者がそろう。
中田さんは、仕事の都合状、遅れるらしかった。
中北さんの娘さんのあいちゃんは、、高校の入学祝のプレゼント、
なおちゃんはお母さんと一緒で親孝行。
ももちゃんは岡山から初参加。あやちゃんは、3回目でご苦労さん。
私っちゃんは、3回目で、ありがとさん。
午後6時30分、飛行機は、関空を、飛び立つ。
機内でとりあえずいつものごとく柿の種で一杯。
4時間後、香港に到着。
そこでゴーちゃんとコカコーラを、飲む。
その後、シドニーに向けて出発。
翌日午前11時にシドニー到着。
そこで東京からきたささきくんと、合流。
そこへ、グラハムさんが、迎えに来てくださった。
2台の車に分かれて、最初の目的地ポーとスティーブンスニむかう。
社中で、、トーとスティーブンすの市長さんにご挨拶することを、
聞かされる。少し緊張。
午後3時30分ごろ役所に到着。
そこで歓迎会。
そこによろいかぶとや、日本の工芸品があってびっくり。
日本人も4人もおられた。
その後、グラハムさんの、家へ、行き少し休息ご、
集会場で、今度は、ロータリークラブの食事の歓迎を、うけた。
午後8時、3班に分かれホームステイ先に行った。
そこで、トムさん夫妻と歓談。
もちろんビールを、いただく。
午後11時シャワーを浴び消灯。
翌日午前7時起床。
7時20分食事。
トムさんと、佐々木君ことトミーは、カンがルを、見に、そこまでドライブ。
すぐに帰ってきて食事。
午前8時グラハムさんが迎えに来てくださった。
いよいよ練習。
グラハムさんの家に集まり、車で移動。
ところが、天気が、天気がはっきりしない。
雨が、降ったり、やんだり。
ああ困ったものだ。
午前10時練習中止。
ああ残念。
その後、予定を、変更、市内観光。
、昼ご飯を、食べて、動物農場につれていってもらう。
カンガルー、ひつじ、馬、牛、コアラ、ぶた、、子ひつじ、
子豚カンガルーの子供など見せてもらい、
さわらせてもらった。
おまけに、哺乳びんでで、子豚にお乳を、あげた。
最後に、牛のお乳を、しぼらせてもらった。
その際、みんなに、バストテスター、みっちゃんの得意分野とひやかされる。
午後4時グラハムさんの家にもどる。
そこで1時間ほど、休憩してヨットクラブへむかう。
ポートスティーブンスのクラブハウスは、ふきぬけで、目の不自由な私でも、
広広と肌に感じた。
二階のベランダからの砂浜のながめは、最高で、
私の目にでさえ何か語りかけてくる気がした。
そこで片手にビール、こりゃ最高だわ。
ゴーちゃんにみっちゃん、浜辺を、見ていると、
見えているみたいやなあと、ひやかされる。
こんなすばらしいクラブハウスで、
バーベキューバーティー。
午後8時記念写真を撮ってもらって、トムさんの家に帰宅。
みんなで、トムさんの家へ、オシカケジャグジーにいれてもらう。
中田さん、グラハムさん、ゴーちゃん、
あやちゃん、なおちゃん、あいちゃん、
トミー、マイケルと、8人で、わいわい言いながら、
ビール片手に3時間入っていた。
私は、ジャグジーデビールを、4本も飲んでしまった。
最高の夜だった。
翌朝3月1日午前5時起床。朝食をいただく。
6時前、グラハムさんが、迎えに来てくれ、なごりおしいが、
キャンベラへ、出発
いよいよ本番。
午後1時、キャンベラのホテルに到着。荷物を、置いて、
すぐにレース会場へむかう。
私は、今回が、3回目となるが、毎年、会場の整備が、
進んでいるようだ。
ゴーちゃん、西井さん、中田さんは、みんなを、
置いて後発タイを、迎えにキャンベラ空港へむかう。
私は、練習を、するために身支度を、し、船の用意ができるまで
30分程度テントで、休息。
そこへ、グラハムさんが、船の用意が、できたと言ってきた。
無線が、まだないので、あやちゃんと、二人で乗る。
20分程度たったところで、グラハムさんから、もどるように指示される。
岸にたどり着いて、船からおりたところで、黄色い穂の、
ヨットに乗るように指示される。
これが、私を、大変驚かせることになった。
グラハムが、マイケル、ポールさんと、黄色の穂のヨットに乗れと指示。
ポールさんと?
エー。
彼は、確かブラインドじゃあなかったか?
そうだ、たしかにそうだ。
こりゃあえらいことになった。
ポールは、毎年出場しているオーストラリアのブラインドだ。
彼とは、よくしゃべって知っている。
ブラインド二人で、ジブセールのある2枚穂のヨットに乗りこんだ。
1年ぶりに彼と再会し喜んだ。
二人のヨットは、水面を、すべり、岸を、離れた。
不思議な世界が、広がった。
誰からの指示もなくヨットは、走った。
これは、どうなっているのだ?
何も見えていないのにヨットは、ポールの指示道理にジユウ自在に走り出した。
ポールが、ゆっくり口をひらけ、しゃべりだした。
マイケル太陽の、あたたかさを、感じる会?
影は、
風は、どうだい?
帆が、しゃべるのが、わかるかい?
帆が、しゃべるって?
なるほど、風に上りすぎたらパタパタ言うな。
それがトークか?
マイケル、音声ブイハ、聞こえるかい?
ブラインドの練習のために三つの
ブイに、それぞれ違う音声を、発する仕掛けを、してくれてあるのだ。
これは、すごい。
だけど、初めての私にとって、音がなくなったり、
ちかずいたり、離れたり、
いろいろな音が、まじわったりと、頭が、混乱した。
だけど、ポールは、からだのすべての、能力を、使い、
自然を、みかたに、自由自在に、操船した。
本当に驚いた。
こりゃあすごいわ。
いい経験をさせてもらった。
ポールと、2時間程度、練習させていただく。
ヨットに乗っているあいだポールと、いろいろな話を、させてもらう。
身振り手振りとは、お互い、ミエナイノデ、いかないが、
何とかかたことの英語で会話した。
その中で彼は、マイケル君はいくつだい?
43歳だ。ヨットをやり始めて何年だい?
3年だ。
発病して20年、目がこの状態になって約12年ぐらい。
そうだろう。
私は、今54歳だ。
ヨットは、9歳からやっている。
5歳からブラインドだ。
だけど、そんな幼いころには、この障害者用のヨットは、
なかったじゃあないか?
そうだよ、だから普通のヨット、クルーザーなどを、
乗っていたんだ。こりゃあすごいわ。
私と、環境、背景が違いすぎる。
マイケル、君が、やりだして、まだ3年だからしかたがないよ。
そうだな。
そんなやりとりをしながら、練習した。
ポールと、練習させてもらって本当によかったとおもった。
オーストラリアにきたかいが、あった。
目が、見えないといういいわけは、しないぞと、思った。
目頭があつくなった。
桟橋に、もどって、ポールと、握手した。
ポール、ありがとう、目からうろこだった。
桟橋には、北港ヨットクラブの面々が迎えに来てくれていた。
藤本さん、松本さん、稲盛さん、野崎さん、イナズミさん、田淵さんと、
28日出発組みだ。
藤本さん、松本さん、稲盛さんの、声を、聞いて、ほっとした。
何かオヤジが、来てくれたみたいな気が、した。
うれしかった。
みっちゃんいい経験できたなあ。よかった、よかった
さあ、中田さんと本番練習や。
オーストラリアで買ってもらった新しい無線を、つけて、
練習を、した。
30分程度レンシュウシタ後
岸にもどった。
中田さんは、、私を、先導するゴムボートを、待っていたが、
まだこなかった。
夕方、ホテルにもどり、シャワーを、浴びたあと、もう一度、
湖にもどり、バーベキューパーティー。
ビールが、なかったのでホテルへ、帰って、藤本さんにビールを、
もらって飲む。
午後11時消灯。
翌朝、6時半起床。
7時ホテルで、朝食。
8時レース会場へ、到着。
8時45分艇長会議。
みんなで、本部テントに、いく。
注意事項、どのクラスのレースが、いつスタートか、述べられる。
また、特にレースコースの変更に関しては、入念に述べられた。。
私の、出場するでビジョン3は、午後1時に決定した。
なんとなくほっとした。
去年午前の最初のレースで、スタート時に、まだヨットが、
きていなかった、苦い経験が、あったので、午後の、レースでよかった。
おまけに午前中は、風が、ないことを、知っていた。
ヨットは昨日用意できてあったが、
しかし今年もゴムボートが、きていなかった。
ああハプニング。
午前中の、レースが、はじまった。
せっかくまた杉山さんに買っていただいたゴムボートなのに
まだかなーと待ちどうしい。
しかしゴムボートは、まにあった。
ただ、エンジンの調子が、悪く、中田さんと、藤本さんが、
ほかのエンジンに、変えるなど、手をやいていた。
しかし何とかエンジンも動き、乗れるようになった。
ゴムボートに、杉山さんの会社のシールを、はり完成。
杉山号発進。
午前11時、時間があったので、中田さん、あやちゃん、
あいちゃんと
、スーパーへ、デッキシューズを、買いに行く。
あやちゃん、愛ちゃんは、カレーを、買う。
午後12時半レース会場にもどり、昼食。
朝にレースのあった、野崎君、いなもりさん、あこちゃんが、
もどってきた。
風がなく勝手が、違うみたいだった。おまけにたえず風の、
方向が、変わり、風が、吹いたり、やんだりと、大変みたいだった。
稲盛さんが、みちゃん、気楽に行きやと声を、かけてくれた。
午後1時、いよいよレース。
この日は、3レースあった。
中田さんと、藤本さんが、ゴムボートで、サポートしてくださった。
いろいろ、失敗は、あったが、すべて完走できた。
無線も良好、サポートも一流。
私は三流。今後の、課題が、はっきりわかった。
なおちゃんは、結構いい成績で、終わったみたいだった。
私は、3度目の挑戦で、やっとこさ初日のレースすべて完走できた。
いろいろな思いは、あるが、これで、はじめて、スターとラインに、
立ったような気が、した。
初日のレースの夜、パーティー。
ちょっと、トラブルがあり、パーティーに遅れる。
しかし、遅れたブン、ビールが、うまかった。
パーティーも半ば過ぎたころ、あこちゃんが、マイケル、
オーストラリアの、かたが、お話したいと、言ってるよ。
わかった、そちらに行くよ。
行ってみると、グラハムさんと、ワインさんだった。
ワインさんは、ブラインドで、グラハムさんの、友達だ。
彼は、私に、無線操縦のことを、聞いてきた。
というのも、彼は、サポーターと、二人で乗っているらしく、
無線の、乗りゴゴちを、聞いてきた。
特に、たくさんの、船が、出場するため船どうしの接触のことを、
心配していた。
また、昨日ポールと、練習した音声ブイのことを、
どう思うかについても、聞かれた。
私は、音声ブイで、練習してみたいと、答えた。
グラハムさんが、今年の、10月に、日本に、持ってきてあげると、
言ってくれた。
そうこうしていると、バーバラさんが、きて、彼女の、夫と、ご両親を、
紹介してくださった。
また、去年お断りしたイタリア行きのことを、私と、おどりながら、
話だした。
、おどっている間、彼女に、なぜ、そんなに、ブラインドの、
世話を、するのか聞いた。
理由は、何もない、ただしたいだけだと、言った。
もし理由が、あるとすれば、おばあちゃんが、目が、
不自由だったからかもしれないと、言っていた。
また、なぜイタリアへ、行くきっかけが、できたのか聞いた。
オーストラリアとのレースとは、違い、クルーザーで、
レースを、するとのことだったので、不思議に思った。
するとこう答えた。
スペインへ、旅行したとき、イタリアの、ブラインドと、
知り合いになったことで、イタリアで、マッチレースを、
するようになったとのことだった。
やっと、話の、内容が、わかった。
私に誘っている内容は、こうだった。
イタリアで、24フィートのヨットで、レースを、する。
日時は、9月。
メンバーは、一チーム、健常者二名、ブラインド2名で、構成。
オーストラリアチームは、二組つくる。
現在ブラインドが3名いる、あと1名のわくに私を、誘ってくださったのだ。
ようは、オーストラリアチームに、参加するようにとのことだった。
詳しいことは、翌日のレースの、休憩中に、するとのことだった。
本当に、驚いた。
日本人の、チームを、つくるのでは、なく、オーストラリアチームに
いれてくださるとは、気持ちが、ありがたかった。
ましてや、私は、何の経験もない。
そんなこと心配しないでもいい、イタリアで、練習したら、なれると、
言ってくれた。
グラハムさんが、教えてくれる、みんなが、教えてくれるとのことだった。
話し終わった後、、今年も、アニーの、トランペット演奏を、聞き、
改めて、今年もオーストラリアに、これたことに感謝した。
帰ってすぐに、眠ってしまう。
翌朝、
、午前7時起床。
8時半過ぎレース会場到着。
朝食として、サンドイッチを、食べる。
午前10時、レース。
二日目は、私は、午前中のレース。
二レースあったが、どちらも完走。
今日は、昨日よりも、納得がいった。
全レース完走できて本当にうれしかった。
練習すれば、これから本当に実力がついてくるような気がした。
私の、課題が、本当にわかったような気がした。
また挑戦したかった。中田さん、藤本さんよろしくお願いします。
私のレースが終わって、バーバラさんが、やってきた。
西井さん、を、交えて3人で、イタリア行きの、説明を、改めて聞いた。
日時は、9月、予定は10日間。
私は、オーストラリアチームの一員として参加。
費用は、旅費のみ。
イタリアでの、宿泊費は、出していただけるとのことだった。
経験は、なくても心配しないでいい。
詳しいことは、メールしてくださるとのことだった。
プッシュは、しない、ただアナウンスダケダトおっしゃった。
それにしても、心の中から喜びが、わいてきた。
誘っていただけることは、本当にありがたかった。
休みと、お金、練習、サポート、
いろいろ問題は、あるが何とかしたいと、思った。
またひそかに私が、ひとつだけ、こだわっていることが、あった。
それは、イタリアという、地にあった。
あそこのパスターだ。
私は、今一年がかりで、やっていることが、ある。
人に、やさしいうどんずくり。
何とか何とかやり遂げたい。
イタリアへ、行けば解決するような気がした。
頭を、パスタが、よぎった。
神様が、イタリアを、指したような気がした。
バーバラさんと話している間、頭のかたすみにうどんが、ちらついた。
ひょっとしたら私でも、世の中の人に、お役にたてるチャンスが、
くるかもしれないと、思った。
ゴゴ1時、デビジョン1、6のレースが、はじまった。
稲盛さん、野崎君、アコチャンノ拳闘ぶりが、テントに知らされる。
がんばって。
特に野崎君は、私のことを、練習、ほかいろいろなことで、
サポートしてくれていた。
師匠がんばって。
稲盛さんは、北港で、いつも、リンギレースのときに、
障害者も一般の方に交えて参加させてくださる。
ありがたい。
おまけに今度は、オーストラリアまでオ付き合いくださった。
世界選手権が日本で開催されるとはいえ大変なことだ。
アコチャンハ、はじめてお目にかかるが、オーストラリアで、
今回は、通訳としてがんばってくださっている。
国体の選手で、現役バリバリだ。
みんなそれぞれの思いで、れーっすにまで、参加してくださった。
みんながんばってください、心からそう思った。
レースを、待っているあいだ、西井さんや、藤本さんと
イタリア行きのことを、相談した。
また松本さんは、熱心に10月の大会の作戦、特に、障害者の、
参加者のための環境ずくりを中心に、考えていろいろな関係者と、
流暢な英語で、話していた。
さすがー。
私は、自分のことで頭が一杯なのに。
午後3時半、レース終了。
みんなで、かたずけを、おえ、
午後4時表彰式。
日本からは、稲盛さんとあこちゃんが表彰された。
われわれも、参加賞を、いただいた。
今年は、私にとって、レースもさることながら、ほかの面で、
違った感謝と、感動が、あった。
皆さんありがとう。
レース終了後、ホテルの横のスポーツセンターで、日本人全員で食事。
グラハムさん、シンガポールの面々オーストラリア在住のケン君一家、
ほか大会関係者、
とだんらんした。
本当に充実した旅行だった。
ホテルに、もどって、中田さんと、ビールを、飲みながら、
いろいろなことを、話す。
中田さんありがとう。
そこへ、佐々木君が、ビールを、もって入ってきた。
マイケルさん飲みましょう。
これは、ありがたい。
私の、人生がビールであることを、知っているのか?
今日で、彼とは、お別れ、彼は、明日からオーストラリアを、
一人で、まだ旅するそうだった。
彼は、最初、ブラインドは、暗いと言うイメージが、あったそうだ。
目の中は、暗いが、ビールを、飲めば、人格が、変わることを、
知らなかったみたいだ。
ただ、私みたいなノー天気ばかりでは、ないかもしれないが、
とにかくビールを、飲み、楽しくかたった。
午前1時になっていた。
午前4時起床。午前5時キャンベラを、あとにした。
午後9時半、関空に、到着。
お願いもしていないのに、渡辺さんが、迎えに、
きてくれていた。
本当にびっくりした。
私と、野崎君、ももちゃんを、乗せてそれぞれのところまで
送ってくださった。
今回の、旅は、私の、転機になった。
いろいろな、おどろき、感謝、感動が、あった。
感謝。
松本さんへ
かっこいい。
稲盛さんへ、
また、北港のリンギレース出させてください。
田淵さんへ
10月のコミッティーよろしくお願いします。
イナズミさんへ
たくさんの写真ありがとうございます。
男前にとってくれた?
ゴーちゃんへ
旅行のお世話ありがとう。
いつも聡明な解答ありがとう。
中田さんへ
いつも操縦しにくいラジコンヨットでごめんなさい。
野崎君へ、
いつも練習ありがとう。
私は、のんべで、ごめんなさい。
西井さんへ、
こんなすばらしいヨットを、紹介してくれてありがとう。
新しい世界が、始まりました。
佐々木君へ
がんばって卒業論文書いてください。
あやちゃんへいつも細かい気ずかいありがとう。
なおちゃんへ
いつも笑顔ありがとう。
がんばって、ハンディー克服しましょう。
なおちゃんのマミーへ。
いろいろお世話かけました。ありがとうございます。
娘さんとのスキンシップよかったですね。
愛ちゃんへ
高校入学おめでとう。
いろいろな可能性を、試してください。
ももちゃんへ
はじめてのカイガイ旅行どうでしたか?
あこちゃんへ
通訳ありがとうございます。
、、藤本さんへ
、不良ブラインドに付き合っていただいてありがとう。
この他いろいろなかたがたのおかげで旅行できました。
本当にありがとうございました。
今後いろいろな場面で、またお世話になると思いますが、
皆様よろしくお願いします。
名倉 海子
私がアクセスディンギーと出合ったのは、昨年。高知県の
障害者スポーツセンターが
3艇購入して、現在は年に2回程の体験教室を行っている。
初めて見た時の印象は、
「なんだ?このあひるボートみたいなヨット!」
ハイクアウトなんてしなくていい、それどころか背もたれに
ゆっくり腰掛けて、まるでハンモックでお昼寝するような感じ。
バウに向かって並んだ二人掛けなので、デートに最適といった
ところだろうか。操作はセンターケースの後にある、
ジョイスティックで行う。ちょうどマニュアル車のギアのような感じだ。
普通のヨットと違って、ジョイスティックを倒した方にヨットの
向きが変わるので、最初はちょっと戸惑う。今まで高知で行った
3回の体験教室で子どもや障害者の人達と一緒に乗って、
みんなの喜びぶりを見ているうちに自分もすっかりこの艇が
好きになってしまった。今回は高知県にこの艇を紹介してくれた
NPOセイラビリティージャパンの西井さんに声を掛けていただき、
オーストラリアでのインターナショナルレガッタにサポートで
参加することになった。
日本チームが入るより一足早くシドニーに到着した私を、
現在シドニーでアクセスディンギーの普及活動をされている
グラハムさんが迎えに来てくれていた。彼は約7年前にバイクの
事故で片足を失った。片足を失ってからヨットを始めた彼は、
ヨットを始めて1年もしないうちにシドニー−ホバートのレースに参加、
99年にはメルボルン−大阪ダブルハンドのレースに同じく
障害をもつビニ−と参加し、みごと完走している。グラハムと
一緒に空港から彼のお友達の家まで電車で行った。
「ここに僕の愛車を置いてあるからね。」待っていたのは、
なんとサイドカー付のハーレーダビットソン。荷物はサイドカーで、
私は後に乗せてもらった。初めてハーレーに乗る私は、
最初はおっかなびっくりだったものの、乗り心地は快適で
長旅の疲れからか途中で居眠りしてしまい、グラハムに
何度も起されてしまった。彼は片足が義足といっても、
その義足はコンピューター内臓の最新式で、歩く事も階段を
下りる事も難無くこなしてしまう。
「50,000豪ドル(日本円で約350万)もする足だよ。」と
自慢げに見せてくれる。
ハーレーにまたがって2時間半で、ようやくグラハムの家に着いた。
グラハムの家はシドニーの北のポートスティーブンス市にある。
日本チームに合流してキャンベラに行くまでの数日間、
こちらでお世話になりながら、近くのダムでのヨット教室を
お手伝いすることになった。このダムは、飲み水の供給源となっている為、
遊泳は禁止。でも、なぜかヨットは良いらしい。但し、
ヨットからわざと飛び込んで泳ぐのはいけないという。
「もし、沈したら?」「すぐに起せばいいさ。」なんともオージーらしい。
お手伝いの初日早々、近くの学校の知的障害の子供達と一緒に
アクセスディンギーに乗った。こちらの障害者の人達は普段から
いろんなスポーツをしている。それでも初めてヨットに乗って、
ヨットから手を伸ばして水面に触れてみたりして、みんな楽しそう。
10分もたたないうちに、自分でジョイスティックを操作して
艇を走らせる子もいれば、操船は私にお任せで、少し艇がヒールしても
ビクビクしている子もいる。基本的にはヨットを操れる人と二人で乗るが、
慣れてくると一人で乗れるようになる。もちろん障害の程度にもよるが、
本人が希望すればそのようにさせている。この日も一人で乗りたいと
申し出た男の子が、沖で風向に向いたままベアできなくなってしまい、
そのまま20分くらい帰って来れなくなった。よく見ると、
ベアしようとはしているものの、上手く操れないのか、
ジョイスティックの調子が悪いのか、すぐに風上に戻ってしまっている。
日本ならすぐにレスキュー出動というところだが、
「もうランチタイムだからなんとかして戻ってくるよ。」と、
岸で見守っている。結局彼はランチタイムに間に合わず、
桟橋から「もうお腹がすいたー!先に食べちゃうぞー!」
とみんなから言われ、見かねた別の艇に引っ張られて帰ってきた。
それでもニコニコ顔でとっても楽しんできた様子。
とにかくみんな顔が生き生きしていて、こっちもつられて思わず笑ってしまう。
このダムでは、週に3〜4回、こうしていろんな学校の子供達が
ヨットに乗りにくる。スタッフはこの町のロータリークラブの人達の
ボランティアである。子供達の数も多い時で10人程度の小規模なもので、
スタッフも3〜4人で対応している。スタッフのほとんどは、
会社をリタイアした人だが、みんなヨットを今でも楽しんでいる
現役セーラーである。放課後にやってくる子供達を、
2時間程度ヨットに乗せて、準備も後片付けも10分くらいで終わってしまう。
これ位の手軽さだから、続けられるんじゃないかなあ、と思った。
少しずつ地道にヨットの楽しさを地域の人達に広めていく、
この町の活動がなんだかとても羨ましかった。
シドニーに到着した日本チームと一緒にインターナショナルレガッタが
開催されるキャンベラへ移動。今回日本からは、選手が4名、
サポートスタッフが12名の大所帯で海外からの参加国では
一番大きなチームだ。他に、シンガポール、カナダ、アメリカからの
参加があった。私はサポートとして参加する予定だったのに、
ひょんなことからレースに出させてもらえる事になった。
障害者の人だけのレースだと思っていた私は、「あれ?私も出れるの??」
「アコは、ディビジョン1で出て、男の子達を負かして
一番にならなきゃダメよ。」と、このレースの運営をしている
ジャッキーから重要な使命を受けた。アクセスディンギーは、
‘Sailing for
everyone.ユ’誰でもヨットを楽しめるのである。
障害の度合いによってクラスがディビジョン1~7まで分かれていて、
健常者や障害者の中でも比較的軽度でセーリング経験の豊富な人は、
ディビジョン1になる。今回日本から参加した選手では、
私以外にも日頃から大阪の北港でセイラビリティーの活動を
お手伝いされている、野崎さん、稲森さんが健常者でレースに出られた。
ディビジョン4に大上直美さん、ブラインド部門に岡道伸さんが参加。
二人とも大阪の北港でアクセスの練習をしていて、
直美さんはまだヨットを初めて1年くらいで今回が初めての
大きな大会だそうだ。大会前日の練習日にシンガポールチームと
一緒に練習をして、「彼らとっても速いのよー。」と
少々緊張している様子。岡さんは、オーストラリアでは‘マイケル’
とみんなに呼ばれていて、今回で3回目のインターナショナルレガッタの
参加で、こちらではお馴染みの選手である。始めてのレガッタでは
健常者の人と二人乗りで参加していたが、今回で2回目の
一人乗りで挑戦する。
ブラインドの一人乗りは、マークからの発信音と陸上からの
無線を頼りにコースを回る。
実は練習の時に、私もブラインドの選手の練習に混じって、
目を閉じてマークからの発信音を頼りに実際に走ってみた。この時は、
グラハムと一緒に乗っていたので、グラハムが隣で「今、
マークが何時にあるよ。」と教えてくれたが、それでもすごく難しい!
マークからの発信音は、結構間隔が長くて、音のしない間に自分が
どこを走っているのかすぐ分からなくなる。普通のヨットならティラー
からのヘルムを感じる事ができるが、アクセスディンギーは、
ジョイスティックなのでそれが分かりづらい。またレースが行われた
湖の風のよく触れること!しかも2m/sくらいの微風が吹いたり
止んだりなので、結局私は同じ所をくるくる回ってばかりいたらしい。
これでブラインドの人達はコースを回るんだから、すごいなーと感心した。
選手だけでなく、無線で選手に位置を教える人も、マークの位置や
風の振れを選手に的確に伝えなければならず、これもなかなか
大変な仕事である。自分がヨットを操るよりももっと大変そうだ。
さて、いよいよレース初日。久しぶりのレースでかなりワクワクして出艇。
午前中はディビジョン1、6,7のクラスが順番にスタートする。
ディビジョン1には、私と野崎さん、‘303’というジブのついている
アクセスで参加の稲森さんはディビジョン6だ。
約40艇のアクセスディンギーが湖面に浮かぶ。ビーチの目の前なので、
ビーチからの歓声も賑やかだ。風1〜2m/sで、「ブローが来たー」
と思ったら、なくなってしまうといった感じだった。
それでも文句を言ったり、ティラーで艇をバンバンたたいたりする人は
もちろんいない。健常者の人も、障害者の人もみんなとにかく楽しそう。
こんな光景を私は初めて見た。障害者といっても、いろんな人がいて、
見た目にはなんら健常者と変わらない人もいれば、
両腕、両足がない人だっている。最初、私は正直言って戸惑った。
レースをしていても、「隣で走っている人は目見えてるのかなあ?
よけた方がいいのかしら?」
と、ついつい見た目でその人の障害を判断しようとしてしまって、
よけてみたら実はその人は健常者だったりもした。第1レースはせっかく
上マークまでトップ目で到達したのに、人を避けている間に
風がなくなって、そのままマークタッチ。360°している間に、
ジョイスティックとラダーをつないでいるシートが外れて、
ラダーがきかなくなって、また人とぶつかる。ぶつかった時は、
今回のルールでは360°なので、またもう一回転。この後のレースでも、
クルクル回る風に全然ついていけずに、この日の3レースの結果は散々。
「障害者の人達のレースだから、簡単に一番になれるだろう。」
なんて甘く見ていたのは大間違いだった。上位の人達は、
ほんとに上手く艇を操っていく。変に気を使って避けたりしている
場合ではなかったのである。障害がどうであれ、同じレースを
やっているセイラーなんだ!ということ、また、自分が知らず知らずの間に、
色眼鏡をかけて障害者を見ていたということに、1日目を終えて
ようやく気づかされた。成績は悪かったものの、なんだかこんなに
ニコニコしながらレースをしたのは久しぶりという感じがした。
この日の夜のパーティーでは、大阪の北港ヨットクラブの
メンバーが今年10月に北港で開催される
第3回のインターナショナルレガッタの宣伝に大忙し。
みんなでお土産を配って、少しでもたくさんの選手に
来てもらえるように頑張っていた。私もできるだけたくさんの選手に
来てもらって、日本の人に見てもらいたい。どんな障害があろうと、
こんなに楽しそうにヨットをしている人の姿を。
2日目のレース。昨夜のパーティーでおいしいお酒を飲んで、
みんなで踊ったのが良かったのか、気持ちよく走ることができた。
というか、周りの選手がどうであろうが、普通にレースができたという感じ。
やっと色眼鏡を外して普通に見る事ができるようになったのかもしれない。
ビーチに帰ってから、シンガポールチームの選手に
アクセスディンギーの事を色々教えてもらった。私のセーリングを見て、
「アコは上半身を使ってバランスが取れるから、うらやましいよ。
今日は最後までトップでよかったね! 今度は僕の得意の強風で勝負しよう。」
と言われた。彼は車椅子で、上半身も自由には動かない。それでも
25ノットの風でも練習するそうだ。「風が強い方が楽しいよ!」と、
微風シリーズを悔やんでいた。シンガポールチームは5人中2人が
各クラスで優勝して、チームトロフィーを獲得していた。今回、
日本チームの成績は振るわなかったけれど、みんながそれぞれに大会を
楽しむことができたようだった。「こんな楽しいヨットレースを
10月に大阪でやろう!」と選手だけでなく、一緒に来ていた
スタッフも心から思えたのではないだろうか。レースを終え、
日本チームの最後の夕食の時に、今回ブラインドの一人乗りに
初挑戦したマイケルさんが、
「毎回このレガッタに来るたびに他の国の選手たちにびっくりさされる。
自分は日本では‘目の見えない人’やけど、もっと色んな事が
できると思うから、みんなに‘一人の人間’として見てもらえるように
頑張りたい。」と言っていた。私も今回初めて、水の上で
‘本当のバリアフリー’を体験したような気がする。
“Sailing for
everyone”10月の大阪・北港でのレガッタが
今から本当に楽しみだ。