私は、8月21日の午後1時に会社から、先方のトラックに便を借り、堺まで向かいました。 三宝出口手前の車線減少の所まで、機嫌よくのっていましたが、そこから、私の記憶が無くなり、事故となります。事故現場から、会社に電話が入り、妻と社員が、救急病院に駆け付けたときには、大変な状況だったみたいです。ただ一つオオム返しに、藤本増夫 1951年5月9日生まれ52歳をきっちりいっていたそうです。しかしわたしの記憶には、何もありません、ただ、ビーチの桟橋で、ボブサップみたいなおっちゃんが、渡し船の料金が6000円で100馬力のモーターボートだといってました。近くの双眼鏡でのぞくと、ビーチは、若いビキニのねーちゃんが、たくさんいました。
室町時代の初めまでは、三途の川に、立派な橋があり、正直物と金持ちが通れた、
軽い罪人と貧乏人は浅瀬を歩いて渡った、 応仁の乱(オニの乱)のあと 橋が焼け落ち 六文でわたしてくれる渡し船になる。江戸時代に入って、橋を造ろうとしたが、家康の政治の方針で、ダメになった、彼は、敵を殺して戦に勝っても、三途の川に大きな橋があると、そこからせめられるのに気をやんでいたのだろう。
最近、地獄の閻魔堂から、閻魔のシャクを盗んだ、おじゃるまると名乗る、雅びな おこちゃまが、月光町にあらわれ、怪奇な事を行なうと、日本放送協会とやらが、教育TVにて報道し,あの世の世相風紀をみだしてるという。。。。。
救急病院にかつぎこまれた当初は、わたしの、別の心が働き、受け答えをしていたことが、介護して頂いたみなさんの、話しをまとめてから、推測されます。先ず、病院とは思わず、天国と思い込み、看護婦のみなさんを、ねーちゃん ねーちゃんと呼び、あげくに、すきなアイスクリームや、ジュースを要求し、ねーちゃんと声をかけたら、おばちゃん看護婦が、喜んで振り向くと、顔をそむけるなど、悪行の一切を、妻 家族 兄弟から、聞かされました。これも 帰ってきたヨッパライという歌が 多感なる青春時代に、はやっていたのが、まちがいのもとなのかな〜・・・・・
何の因果か、退院する頃には、10月30日に 座・バリヤフリーで三途の川ばなしを披露することがほぼ決まっていた、実は身体の調子や、先のことを考えると二の足を踏みたいところだったが、私の無事な姿を確かめたい人や話を聞きたい人からのメ−ルもあり、我が友(百五十年来の友 詳しくはhttp://www.kiboujuku.com) J,Tペリーが 前座で、西洋の三途の川話をしてくれるので私も講演の決意をしました。私が生還できたのは、皆さん方のお陰だと信じ、皆に大いに笑ってもらって楽しい会にしようと心に誓いました。
構成
出囃子 帰ってきたヨッパライ 座・民謡十字軍
挿入歌 いきてりゃいいさ アカペラ Eigo Kwasima
時代遅れ アカペラ Eigo Kwasima
山の友よ アカペラ あひるのおじさん
いつかある日、アカペラ あひるのおじさん
弾き語り どうしてこんなに悲しいんだろう、 Takurou Yosida
いきてりゃいいさ Eigo Kwasima
明日があるさ アカペラ Don Gabacho
海その愛 万年若大将
襟裳岬 Takurou Yosida
進行表
1 事故紹介
2 救急病院にて (天国ばなし)
3 西のかわらにて 地獄話し
4 ボブサップとビキニのねえちゃん
5 まだ来た浜に出て来れた、母上
6 再新情報 地獄八景亡者戯
死者協 バリヤフリーノーマライゼーション
7 近日来演 荻野 光
8 船に乗らず次の夜 伏見 笠置 伊勢 歌
9 めざめ 正気が戻った。
10 転院 家に近い病院 ハーゲンダッツ
11 PC導入 携帯復活 北に立ち飲み 南に隠れ家
12 仲間からの電話 ある障害者の励まし
13 報道管制 あとで聞いた話やけど、ありがとうございます。
14 OGからのエアメール 歌
15 退院事情
16 事情聴取こぼれ話し 歌
17 現状報告 感謝
自己紹介
藤本増夫
1951.5月 大阪市港区にて・塩飽指物師・藤本静夫の長男として生まれる
1964.3月 大阪市立波除小学校卒
1967.3月 大阪市立市岡中学校卒
1970.3月 大阪市立工芸高校・木材工芸科卒
10月 後継者として藤本木工所にて家具の製作に従事
1971、 日本カート協会 ライセンス 取得 以後14年間
KARTの活動を続ける。
1972, レークビワ・ハイランドにて初レース
富士スピードウェイ YGSF参加
1976 KSK第三代会長に就任
1981.10月 結婚
1990.3月 1級小型船舶操縦士免許取得
1994.7月 大阪芸術大学で「樹と森と木材について」講演
1995.7月より 樹望塾を主宰 毎月第2火曜19時
1997.3月 福祉と住環境を考える会「住環境を良くする自然素材」講演
1997.3月 セイル大阪 '97国際帆船レース 香港〜沖縄 参加
1998.2月 OBC桂九雀ワイワイじゃーなる「樹木は友達」ゲストコメンテーター
1999.3月 吉野山灯りセミナー パネラー
2000.2月 第5回アクセスディンギー全豪選手権に世話人参加
JIDA Kansai 平成塾 講師
2000.3月 日本経営工学会 論文誌 『経営システム』
第10巻第2号 特集:日本の技術
塩飽指物から生まれる家具製作技術 発表
2000.7月 大阪ガス情報誌 G front No2/July 2000
リレーエッセイ 人と空間・私の視点A
木と木が、人と樹が寄り添う家具づくり
2001.2月 第6回アクセスディンギー全豪選手権参加
2001.3月 日本人間工学会 関西支部総会
シンポジュウム「人間工学と福祉:人間らしい生活・労働をもとめて」
「障害者ヨットへの取り組み」 講演
2002.2月 第7回 海洋活動促進会議
『より多くの人にセーリングのチャンスを』 講演
2002.10月 第三回アクセスディンギ−世界大会in Osaka 開催
実行委員会 事務局長
2003.6月 TV大阪 『ボランティア21』 ゲストコメンテーター
2003.7月 八尾青年会議所 『達成感について』 講演
現在. 有限会社藤本木工所・代表取締役社長(塩飽指物・別注家具製作)
樹望塾・塾長 福祉と住環境を考える会会員 ATCエイジレス
Lメンバー
大阪北港ヨットクラブ副会長 座バリアフリー メンバー
ユニバーサル・ジョイント メンバー
Sailability Osaka 代表世話人
事故紹介
今回の交通事故はまだ、警察の判断も検察の処理も済んでいない状況なのであまり詳しいことは、言えないが、私は、仕事の外注先である、U君の車に乗って、会社を13時過ぎに出発、13時30分頃、事故現場にさしかかり、車線変更したところまで、記憶がある。
事故は14トンの空荷のトレーラーの前に、私が同乗していた、2トントラックが、スピンして、運転席どうしの正面衝突である。原因や、状況に関しては、警察の検証にまかせる。
だが、大きさや重量の差で、こちらの運転手は運転席に閉じ込められ、下半身が重症の骨折となる、彼が歩けるようになるのは、多分半年以上先であろう。
彼は事故現場から、泉佐野の救急医療センターに搬送される。
私は鳳の救急病院へ、搬送される。その時の記憶はまったくなし。
救急病院にて (天国ばなし)
私が救急病院に運ばれることが決まったとき、高速警察隊から自宅へ連絡があり、妻と次男それと、社員2名が、急遽 鳳の救急病院にくることとなる。
警察は、質問をすると、私が答えるので意識があるとの、判断であったが、私には何の記憶もなく、たぶん、B君が、交通事故で 天国にいったような気分で、受け答えをしていたのであろう。
後日社員から聞いた話では、私は血まみれで 鼻や、耳や口からも多く出血し、運んでいる、ストレッチャ−が 血でべったりと固まり、助かるような状況では、なかったそうだ。
それから、検査や処置が終わり ICUに入院、名前を問われると、藤本増夫、1951年5月9日生まれ、52歳と答えていたそうだ、一日目は、酸素吸入 点滴が、行われ、生死の境をうろついていたようだが、夜中に 酸素吸入 点滴をはずし、起き上がろうとし、ICUが、大騒ぎになったそうだ。
翌日から、B君が、看護婦を見るたび ねーちゃん ねーちゃんと呼んでいたそうで、その言葉に振り向いたのが、婦長さんで笑顔でこちらを見たとたん顔をそむけたそうだ、その一部始終を妻が目撃し、『あれはあなたの本性です』と、言って信じております。
私は天国に行ったつもりになった、よっぱらいのB君の仕業であって、私の記憶の続いている、A君では、ないと言い張っており決して私自身でないといっております。だが、妻は、あなたの、本性ですといいきっていて、言い訳もできない状況で今にいたっています。
でもB君にとったら白い服を着た、おねーちゃんが一杯で、天国の気分だったのでしょう、ただしおねえちゃんには、みんなきっちり太い足があったそうです。
西のかわらにて 地獄話し
私の記憶が正しければ、事故当日のA君の記憶は事故等無く 堺出島出口を降りて、N邸へ行き近所の挨拶を含めて、
予定していた仕事をすまし、自宅にかえり、夕食をとり、床につき、就寝
深夜に、変な夢へ、ふと気がつくと、砂利まじりの道に足を取られ、川岸の土手際をよたよたと歩いている。多分夜明け前、黄道光が出始めるまえの、暗い夜空、川には、大きな杭が何本も立っている、相当な年数がのものらしく、水面と合うところと、上の木口は、大きく朽ちていた。そこを過ぎると、1本の浮桟橋と小屋、それと、川舟が何隻か、浜あげしてあり、浮桟橋には、クリンカー貼りの、パワーボートがあった、そのよこに図体のでかい、黒人らしき者が立っていた。
最近TVでよくみる、ボブサップ君にそっくりである。 私は好きな船を見学していました、日本の川舟の典型的な、板張りの船ばかりでした、修理が行き届かないのかどの船も動かせる状態ではなかった。周囲の景色は、明るくなってきたら、どうも尻無川か木津川の河口の40年前のような景色でした。
あまり話をする気が、なかった、ボブサップ君が、近付いてきました。
ボブサップとビキニのねえちゃん
彼は開口一番、向こうのビーチに、このモーターボートでいきませんか?といいました。私は『何かええこと有るんかいな?』と聞くと、この双眼鏡で向こうのビーチを見ろと、渡されました。覗いてみると、花崗岩のくだけた、白い砂浜に
大勢のビキニのねーちゃんがいるではないか、どこかのコマーシャルで出ていた景色とおなじで、
ギターを弾いてるねえちゃんと歌を歌って踊ってるビキニのねえちゃんでいっぱいでした。それに阪神タイガースの優勝も近付いたのか
黄色と黒の螺旋のカラーリングのクラッカーをそれぞれ頭に付けていました。いきたいな〜と思い、『なんぼやねん?』と問いただすと、6000円と言つたので『高い』と言い、もう少し向こうのビーチを見ていると、
むしろ旗に来るな!と書いたものを振っている、老婆がいるではないか、良く見るとこの正月に亡くなった、母が必死の思いで旗を振っているではないか、私は、ここが西の河原で三途の川であることに、気付いた。そしてボブサップ君に私はヨット乗りだから、セールボートかローボートでないと乗らないといって、川を渡ることを拒絶した、そしたら、首掴まれて、河原の小屋に放り込まれた。
まだ来田浜に出て来れた、母上
最初に感謝は母上にである。
いろんな記憶の中から、冥土に着いて千日以内に閻魔の裁きを受けなければならないことを思い出す。母が亡くなってまだ220日だから、十分 来田浜に出て来れる日にちである。最近、おじゃる丸が閻魔大王のしゃくを奪ってからは、閻魔の裁きが遅れているという噂は、日本放送教会とやらが、しきりTV放送にて流しているのは知っていましたが、こんなところで母上にお目にかかるとは〜〜〜。塩飽水軍の末裔 咸臨丸水夫 大熊 実の孫 大正昭和の最後の帆船船頭、大熊文吉の末娘 シズエさんの姿でした。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
再新情報 地獄八景亡者戯
小屋にいた数人に対岸の話を聞くと、人間国宝の桂米朝師匠の話とほとんど同じで、船の着く浜が 来田浜
閻魔堂までの広い道が冥土筋 閻魔堂周辺が、歓楽街の千日前 道頓堀周辺は多くの死者たちが、最後の晩餐をしています。
最近の冥土はおじゃる丸の一件で人口が増え、特に障害者が、多くなり、千日前を左に六つ上がったところに 上六 死者協ができ、ノーマライゼーションやバリヤフリーなどのお経を広めている。このお経は、ボランティアによって広められている。昨年 道頓堀にワールドカップのあと浮かんできた、若者がいたそうで、最短の冥土行きコースになっている。今年もタイガースの優勝で数名、浮かんできたそうです。
実は、最近のニュースで 荻野 光という 漫画家が、大阪市の市社協のボランテイア団体で機関紙の挿し絵を書きながら、死者協でも挿し絵を書いていることが判明した。彼は、酔いつぶれて現世と冥土の道頓堀にそのつど落ちているみたいです、
交通費無しで、冥土と此の世を行き来しているみたいです。
だれか、荻野 光さんの写真や、住民票を確かめて下さい。
現世では生活していないみたいです。
船に乗らず次の夜 伏見 笠置 伊勢
ボブサップ君に、小屋に放り込まれ地獄ばなしもすみ、眠りにつく母の顔が目に浮かぶ、ぐっすりとは眠れなかったが 翌朝の明け方に、板壁の節穴から外を覗くと、風景がかわっているではないか、屋形船 黒塀の船宿、伏見の景色である、何で川を遡ったのかわからないが、伏見の寺寺田屋前の景色だ!声を出しても壁を蹴っても外に出してくれなかった。数人いた人たちも消えている。なぜ?
夕方になると外から三味線の音と歌声、宴会かな〜聞こえるのは音だけ、見えるのは、船宿の障子越しの明かりだけである。 眠りにつくと、なぜか歌声が、
誰の歌やったんやろ?〜ここを数年前に通過した、Eigo Kwasimaの歌ではないか!そうしていると、
ちょっと待て、このままだと現世に帰れなくなる!!!みんなの元に還りたく思った、そして私のよく歌う、
『どうしてこんなに悲しいんだろう』、吉田たくろうの歌を、歌いはじめた、
めざめ 正気が戻った。
『藤本さん、藤本さん、起きて下さいよ。』何回も私を起こす声を聞いた、少し目をあけたら、若いにいちゃんが、『藤本さん、藤本さん、わかりますか?』
あんただれ? ヨットの師匠ところの、娘婿さん、彼が勤めている救急病院にわたしは、いるそうだ、妻にあった、『ここはどこわたしはだれ?』『おとうさんは、交通事故に逢って、ここに入院してるんや!』 ここで始めてB君とA君が混在する、
話をすることが、はちゃめちゃだったらしい。相変わらず『ねーちゃんねーちゃん』といいながら、『Please help me I want drink』と叫んでいたそうです。
妻から、家の近くの病院に転院するように、大学病院の先生に頼んでいる話をきく、まともに答える A君と、ちゃらんぽらんのB君とが、交互に一人の人間として答えるので、妻は呆れて、『ほんとにお父さん脳挫傷で阿呆になってしもたん』と泣いたそうだ。
私は余りにも急激な変化に付いていけなかっただけなんですが、家の近くの病院に転院してからも、『今日は伊勢も暑かった、氷り赤福が美味しかったで』と、真面目に話していたそうである。こちらは、A君なんだが???
転院 家に近い病院
8月29日 事故後8日で、大阪ドームの近くの脳外科病院に転院となる、転院先の病院の救急車に、妻が、便乗して、迎えにきてくれたらしい。(記憶にない)
この脳外科病院は、父が30年以上前に脳内出血で倒れた時に入院して以来我が家にとっては、お馴染みの病院で、気分的にも楽である。そして、私の仲間達が時間ができたら、すぐに寄れる場所である。転院した時点でも、たまにB君が出てきて、いろんなことを言っていたらしい。仕事の状況も社員から直接話せるようになり、把握できるようになった、私が大変な時期に事故に巻き込まれ、大変だったと思う。社員と話をしている時に、携帯電話を復旧させてほしいことと、
iBookを病院に持ってきてくれとたのむ、携帯電話は、事故に合った物は、捨てないで、型番の同じ機種で、同一の電話番号にしてもらった。電話が復旧したら、すぐに友人から、『見舞いに行くけど欲しい物ある?』とかかってきたので、アイスクリームが今食べたいな〜と頼んだ、患者が利用できる冷凍庫も合ったので多い目に頼みました。彼がきて、美味しいクリームを頂きました。夜中、トイレにいったとき 患者が利用できる冷凍庫の中から、すこしアイスクリームを持って、看護婦詰め所に訪問、プレゼントする。この件以降、看護婦さんのサ−ビスが急に良くなる。ありがたいありがたい〜〜
iBOOK導入 携帯復活 北に立ち飲み 南に隠れ家
大阪ドームの近くにある総合病院の脳外科に入院するやいなや、携帯電話が欲しい、PCもってこいと、言ってましたが、中々トイレに行くのも、介助が必要でしたので、まずは、自分でうまく移動することができるように、努力しました。
ここは、境川、すこし北に、我が友の立ち飲み屋 南に、尻無し川 わたしの小さいヨットがおいてあり、その先には我が隠れ家、川沿いの小屋を内部だけ改造しおもちゃを沢山並べた部屋、浮桟橋、フロ−ティングパブ、それと7月に私が引き取ったY-19, 実はこの船の面倒をQP君に頼んでいたら、クラブレースに参加したいと、頼まれる、OKしたら、驚いたのは、9月のクラブレースで、優勝してしまったんです。
楽しい入院生活等と考えたが、やはり出歩けない。しかし携帯が復活、iBookも動かし仕事もできる、がんばるぞ〜
久々、メールをあけるとあるは、あるは、メールの山、たった2週間で、200以上、返事や整理するのに時間がかかる、私の事故を知ってメールをくれている人や、メールリンクで私の事故を伝えているものなど、結構疲れました。
私は事故後、顔面神経左側が、麻痺し複眼症状がでて、両目で見ると一つの物が2つに見えたりかぶさったりで、見にくく、iBookを見る時は左目に眼帯をして、作業していました。片目では問題なく何ごともできましたが、左目を使わないでいると、だんだん調子が悪くなり眼科の診断では、使わないと退化しますよといわれ、驚きました。動きにくい左目をできるだけ動かすように心掛けました、
しかし、左目の目蓋が完全にしまらないので、ドライになり左目乾いていたくなります。でもiBookでいつものように多く人たちと連絡がとれるようになり、仕事もできて、助かりました。
そのような9月のはじめ頃、TVを見ていたら、今日は月がきれいで月見にいいですね、と情報が入り、面会時間が終わるころの、PM8:30 にナースステーションのカウンターまで、車椅子を押していき、看護婦さんと、話をしていると、突然肩をたたいて、『藤本さん、なに看護婦さん口説いてまんねん!そんなんやったら、もう退院でんな〜』と、振り向くと、ヨットクラブのN 氏の笑顔が、『いや〜月がきれいから看護婦さんに月見を誘ってただけや!』と弁解してもダメでした、面会時間もすこしだけだったので、クラブやハーバーの様子を少し聞いてわかれる。 彼は、病院を出るとすぐ、我が友の立ち飲み屋、そこで、『藤本さん 看護婦のねーちゃん口説いとったで〜』これで、噂がひろがるひろがる。
仲間からの電話 ある障害者の励まし
携帯電話が復活して、その日、急に電話が鳴った、病院内なので少し小さい声で、話し出すと、いつもヨットでお馴染みの、四日市のブラインドセーラー NS君ではないか、『おっちゃん元気か〜、うまいことやって、障害持って帰って、来年の障害者世界大会にでたらずるいで〜おれら、こまるで〜』と一言、私はあっけに取られましたが、この言葉が、絶対にきっちりなおして、元の生活に戻ろうとする、大きなきっかけになりました。この事故によって、私が、失った物は多いですが、身体だけは、元どうりの、状態に戻って、仕事や生活をがんばろうと決意しました。彼は私が、5〜6年前から、障害者のセーリングを始めたころからの仲間で、全盲ですが、感がよく、いつも四日市から北港まで、誰にも頼らず
一人で、通っています。私が参加している、セ−ラビリティ大阪の参加者は、常連の、50名ほどを中心に累計の参加者は、4000名にも達します。ボランティアも含めると軽く7000名は参加しています。彼等にも私が急にこのようなことになったことで、心配してているのではないかと、気になりましたが、他の
ボランティアやOHYCのメンバーの協力で進んでいるとメールで連絡いただきました。
報道管制 あとで聞いた話やけど、ありがとうございす。
あとで聞いた話やけど事故直後から、私をさがしていた人が多く、それ以外にも事故の情報を知らせなければならない人も多く、家族や社員それと極久しい人たちが、示し合わせ、仕事会社関係にはあまりしらせず。ヨットクラブは、当分面会できないとのしらせを、メールリンクでまわしてもらい、あとは、個々の情報だけで、噂で、藤本さんこの頃、見かけへんな〜ですましていました。
しかし、毎月開催している、樹望塾だけは、樹望塾通信で、9月の第99回は、
都合に寄り、開催できません、と知らせを入れていただいた。
鳳の救急病院では、ICUに入れられていた関係で、家族以外一人の面会もなしですませた。転院してからも、少しだけの人で済み、私の状態の悪いところは、あまりみなさんの前で披露しなくてすみました。セ−ラビリティや、ボランティア仲間の関係は、建築カメラマンのI氏が、取り仕切り、連絡とを一手に引き受けて下さりたすかりました。しかし、彼は何度か見舞いにきて、来る度、若い女性を連れてきました。そして毎度 我が友のイタメシの出る立ち飲み屋に寄っていました。観光コースみたい!私が電話やPCが手に入った時点では、大分からだの方も、まともに反応しだしたが、一つの物が2〜3個に見え 画像が重なる、複眼の症状が一番つらい、まだ、首も動かせないし寝返り等できなかったけど、
自分でヒゲを剃ったりし、なにかできないことはないかと、チャレンジしていた。
OGからのエアメール
入院患者と一番接触しない、病院の事務長が、病室まで藤本さんおられますかと訪ねてくる、普通 事務長が来るのは、医療費の滞納ぐらいでないと、きませんが、これが9月5日ぐらいから毎日昼前後に訪れることとなる。 何でやねん
事務長が、言うには、エアメールが届いておりますと、いくつもの封書を持ってきた、オーストラリアのセーラビリティの仲間たちからの手紙だ、私が事故に逢って瀕死の重症だと言うこともかいてある。(誰が、こんなこと知らせてん)
各差出人が目に浮かぶ、彼達を心配させてすまないと思う、後でなぜ、病院の住所まで彼等が知ったんだろうと思うと、まだ、容態もはっきりしない病人のことを、なぜ、彼等に知らせたのか、心配させるだけのことなのに、誰が送ったかは後で判った、大阪でのセーラビリティの活発な活動を、オーストラリアに少しも伝えないで、私が倒れた事を、さも嬉しくメールを打っている、嫌なやつの顔が浮かんだ、まあ身体の回復に悪いからそんなやつのことは、忘れました。
オーストラリアの仲間からの手紙はそれからも続き、彼等のお陰で、がんばれるんだ、早く退院しようと、誓いました。
退院事情
9月の半ばをすぎ、急に退院の話が飛び出す。9月末に娘の手術が大学病院である、保護者として、その説明を聞かねばならないし、家に二人の入院患者がいると、家族が大変である、それらを見越して、主治医が、退院して今後は通院だけですましましょうと言った。退院できるうれしさと、この体調で大丈夫なのだろうかとの、不安が頭をよぎる、まだ一人で何もできない入院生活だし、身体が順調に動くのかが心配だった、リハビリをはじめだして1週間、少し左に傾いて歩くのは、そのまま、一つの物が2〜3個にみえるのは、未だにつづき、首が少しもまわらない、主治医に相談すると、レントゲンとCTを撮って調べる事になる、その結果、頚椎の一番上の骨にひびがある事が判明、これまでの入院生活で自然にくっついているみたいだそうだ、後でなぜギブスをしていなかったのかと
よく聞かれるが、まづは、脳の回復が一番で整形外科的な治療は、脳の回復をまって始めるとの事でした、あんまり私の首が太く肉が巻いていたのでギブスの必要がなかったんだと思うようにしています。
主治医との対話『先生、首まわりにくいねんけど?』 『ずっと寝てたからな〜
これから、整形外科で、ゆっくり治療やな〜』 『金がまわらんから首もまわらんのかな〜』 『座ぶとん一枚やっとくは!その程度 頭がまわってんのやったら、退院やね〜』 という事情で無事9月20日に退院の運びとなる。
やさしい看護婦のねーちゃんともお別れや〜〜。 !!!!!!!
突如、妻との約束を思い出す。退院時は 90kに体重を落とします。!!!
恐る恐る、体重計に乗ると、93kg 目標まで、あと3kg残り6日
これからもっと厳しいダイエットが、はじまる。〜 たいへんや〜〜〜
退院数日まえ、整形外科にいく、首の診察が主だが、数日前から,右膝があぐらを組むと痛みがはしるのでそれも聞く、まあレントゲンではハッキリしないので、
MRIを撮る事となり、2週間後の予約となる。このMRIの検査が大変な事態を生むきっかけになる。
耳鼻科に診療に訪れる。担当医は、やさしそうな、おねえちゃん、しかし、脳から出血した、血を取るために、耳の奥を治療する、なんとも痛くてたまらない、
両耳の掃除が終わると、気が遠くなるようないたさである、がまんがまん!
退院前日、お腹をすかせ、水しか飲まず、やっと91.5kg 目標まであと1.5kg
一晩で、そんなに体重がへるのかな? 看護婦が、巡回の時に、ふと思い出した、
ここ2〜3日排便していないのに気がつく、何とかがんばれば、90kgで見事退院できる。明日は退院、これで酒も飲めるし、自由に動ける つもりであったが
そんなに現実は甘くなかった。 退院に関しての説明で、まず、禁酒 頭部に大きなショックを与えない。首に関してはもっと要注意!(フライングヘッドバット、ウエスタンラリアット、延髄切りは、当分のあいだ禁止手です!!!) あまりカロリーをとらない。 一日1650〜2000Kcal を超えないように、血圧に関しては事故以前より、通院していた、診療所で治療を受けるように、
眼科 整形外科 耳鼻科 脳外科は、通院するようにと予約を入れられた。明日は退院、看護婦のねーちゃんたちとお別れである、寂しい気持ちなる。彼女らに、快気祝のパーティーには呼んでねと頼まれる。さあ、快気祝が、いつできるか、退院してからのリハビリがすべてであると思った。 翌日おとなしく退院、自宅へ帰る、一月ぶりの我が家である。愛犬が嬉しそうに足下でじゃれつき中々放してくれなかった、かえってきたな〜と実感した。
退院後こぼれ話し
9月20日に退院して、通院しながら、娘の手術の日を迎える、大変心配したが 無事に終了し、ICUにて面会、安心する。次に仕事の状況を社員と協議、彼等も必死でがんばってくれている。見積もりや電話での商談は、私ができるだけ出るようにする。自分自身で良くなろうとする意欲を維持するのが私のリハビリだと、思っている。家に帰って日課にしていた、愛犬の朝の散歩に行くようになった、ここで事件、私の目の状態が悪く片目でならスムースに歩けるのだが、両目では、物が何重にも見え危ない、たまたま片目で歩道を歩いていたら、犬が他の犬を見て近付こうとした、私は、ほんの少し段差のある、歩道に足を取られ倒れてしまった、自分でもこんな悔しくて情けない事はなかった、なんとしても健康な状況に戻したいと強く思った。その3日後 公園で犬の糞を回収していたら
急に引っ張られ、倒れて樹にもたれかかる。肩で樹を支えたので頭を打たなくてたすかりました。
私の仲間たちが、座・バリヤフリーで快気祝いをしようと企画してくれた、
座・バリヤフリー関係の方々には、見舞いを断っていて、元気になったら報告会をしますと、いっていました。10月30日に開催が決まり、自分で講演のネタを集めだした、社員や家族に事故の最初から、入院、転院等で私の言動行動を詳しく取材し、寝ていて聞いた歌を自分で歌おうと、楽譜や歌詞を調べ、ギターの練習もしました。
アクセスディンギ−話
その間に10/12〜13のアクセスディンギーレースが近付いてきました。今回はIFDS(世界障害者セーリング連盟)の一人乗り選手権の代表選考を兼ねた大会で、セ−ラビリティ大阪とヨットエイド近畿が、助け合い、大阪北港ヨットクラブが、協力し開催されました。私は、身体の許すかぎり参加しました、今大会は、SJのN氏の知識や、彼の情報のみで日本の事すべてだと思っている、OGたちには、何もできないし、正確に国際障害者セーリング連盟の活動を理解している、連盟関係者もいなく、障害者スポーツでなく、ただヨットに乗せてやっている、程度の人たちが多い日本の現状だといまさらながら、現実を突き付けられた感じでした。たまたまヨット雑誌の取材を受けた時、障害者セーリングのシリーズ取材だと聞いていたので、なにかがんばっている障害者セーラーに贈り物ができないかと、考えたものです。私が事故で倒れた結果、説明が十分できなかったので、始めての障害者規定等のクラス分けで、戸惑った参加者や、関係者もいましたが、いつものボランティアの笑顔と協力で天候は少し悪かったですが、楽しい大会が行えました。
国際障害者セーリング連盟の世界大会を企画した人は、多くの障害者セーラーが、参加できる可能性のある大会にしたかっただけです。だから、これまで参加不可能だった、重度の障害者と、他の障害者が、楽しめるクラスを造ったのです。(2003/3 取材)
MRI
大会が終わった後、MRIの検査(ここで、大変な事がおきる、足先からMRIのなかへ、入ったが、奥に入るとひじが機械に激突、私の身体MRIの中をスムースに通らない???)を受け、整形外科で診察、右膝の内側の半月版が損傷している事がわかる、手術入院が11月に決まる。首の事を聞いてみると
すべての写真を見ながら、これは絞首刑で死んだ人の首のレントゲンと一緒ですねと言われ、ショック、脊髄の一番上の骨も骨折していて、自然にくっ付いていて、少し段差ができて、首が廻りにくいのだとの結論、これも11月末にMRI検査のあと、治療法を決める事になる。
東京出張
10月の半ばに 得意先から、おさめた品物の補修を依頼され東京出張 まだ新品の商品に色落ちの箇所ができたのだ、これはメンテナンスの理解がまだ完全でないお客様の所で時々ある事だが。これで件数にして4件目である、複眼で見にくいのは少し気になったが、気晴らしに東京出張も良い物だと思い出発、
新幹線に乗るまでは、ノントラブル 車内では気楽に座っているだけ、前のニュースも良く見え、東京駅に到着、下車しプラットホームから階段へ、そこで大事件、プラットホームが、平らにみえる、階段をおりるのに、わからない、手すりまで行けないので、隣の人と歩幅を合わし階段を降りる。上がるのはスムースに見えるが、おりるのは難問であるその後エスカレーターとエレベーターを頼りにする。 仕事は1時間で済み、久々の東京なので、知人に電話し、少しの時間
談笑する、夕方無事大阪着 大分疲れた。
事情聴取こぼれ話し
10月の中すぎ 高速警察隊 高速道路のおまわりさんが事情聴取に訪れた、私は事故の数分前から記憶は、目的地に移っていたのでハッキリわからないが、現場検証の詳細等を聞き、大変な事故だったと、改めて思った、相手の14tonトレ−ラ−は、車線変更してきたこちらの白いトラックが蛇行をしながら、近付いてくるのに気がつき減速のためブレーキを賭けそのスリップ痕が300Mもつづいていたそうだ、後続の車も異変に気付き、減速、こちらのトラックがスピンしトレーラーと運転席どうしが正面衝突したそうだ、後続の車が突っ込んできたら、私達は、この世にいなかったと思うとゾッとしてきた。経緯や事故に対しての思い等を聞かれそれなりに答えた、この事故は警察の判断と検察にすべてを任せなければならない。 話も終わり、担当官から、実は目撃者がいて、事故直後車がとまった時、助手席が開き、ひとりの男が頭から血を吹き出しながら出てきて運転席の前で、運転手を助けようともがいていたらしい、私の事なんだが、吃驚するやたまげるや、おどろきました。
現状報告 感謝
膝の半月版の手術入院は、11月4日と決まっつた、10月末に、以前から付き合いの会った、大新社の関係者から国土緑化推進機構の森林へいこうの活動ぷ
ロジェクトの実践活動の 森林をテーマに自然体験活動に取り組んでいる、愛知県の小学校で木の利用に付いての授業を、手伝って欲しいと相談をうける。私の
話しでいいのなら、お手伝いしますと、気軽に返事し、打ち合わせる内に、たいへんだなーと考えてしまった、しかし、私がこれまでの木に対する話を子供達すると、子供達がどのような反応をするかも、楽しみに、頭のリハビリだと思い、
引き受ける事にきめる。私一人では、漫談なので、三河も国での授業は、漫才のほうが似合っていると思い、樹の知識の大家 M先生に、協力を依頼、『二人で漫才やろと、おもてまんねん』とたずねると、M先生すぐさま『わたしが』つっこみするから、きみぼけやで〜』で一件落着、二人で協力することになる。
10月30日の怪奇祝いは、60名近い方が参加して頂き、大盛況で、私も練習した、歌がまともに弾き語りできたし、ネタを調べたことにより、記憶がすこしづつ、戻ってきたようです。私の話を聞きに集まってくれた皆さん方に感謝します。身体はほんとはぼろぼろなんですが、みなさんのお陰で、元気になろうと頑張り、講演出来た事はすべて、みなさんの、おかげです。感謝
11月4日入院、翌朝一番から、手術 内視鏡を使った、手術、いまマスコミを騒がしている、医療事故の起こりやすい、手術です、昼におわり、病室へ、
翌日から、リハビリ、予定では8日土曜日に退院??そんなに早く治るのかと半信半疑、しかし、おどろくなかれ、見事8日には杖をつきながらでも、退院できました。リハビリに生を出して、19日には愛知県の小学校へ行かなくては、人間、目標を持つと、何事も、頑張れる物で、退院1週間後には、杖無しですこし歩けるようになり、17日に抜糸すると、膝も曲がり階段の上がり下りも手摺を頼らなくても、いけるようになる。木の利用に付いての授業の打合せも進み、学校林の立ち木を一本着る事と成る、山に入らなければならない、すこし不安、色々な道を歩き鍛える、運動すると、すこし熱をもち、シップで冷やす。何となく自信ができ、当日を迎える。朝七時に新大阪駅 新幹線に乗り名古屋下車、地下鉄を乗り継いで、豊田駅、そこからタクシーで半時間、現場に到着、天候と、足場が気になるが、まづは校長先生と、御挨拶、教室を確認して、山へ、すこし登った所に手ごろな桧があった、授業で、生徒と一緒に樹を切り出す、代わる代わる、鋸をつかい、伐採してみんなで運ぶ、私は目の調子がすこし悪く、足下が怪しかったが、無事終了、子供達の真剣なまなざしが私にとって、新鮮な感動でした。
11月も終わろうとしている、いま、私の事を気にかけていただいた、みなさんに、感謝の念で思いがいっぱいです。まだ、頸骨の骨折による首の周りの不調や
複眼の回復のメドもたたづ、不安な要素は一杯ですが、まづ、楽しく一生懸命、生きてやれと思っています。本日、海の時空館で開催された、菱垣廻船浪華丸の
すす払いにて、神戸商船大学の松木先生が最後にいわれたお話で、『この海の時空館の建物より、木造船の菱垣廻船浪華丸のほうが、長もちしますよ、、コンクリートと鉄とアルミ、ガラスで造った建物より、よりすぐった木材で建造された木造船のほうが強いと思います』 私は、この言葉で、大きく元気づけられました、
身体が少々不調でも、がんばって、生きていきたい、樹の話を多くの人に、聞かせたいと思っております。
平成15年11月30日 午後11時
藤本増夫